昭和48年04月11日 朝の御理解
御神訓、一「神信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ。」
神信心をして霊験を言うた様なものが現れるのは、みかげがあらわれるのは不思議ではないと言う事、信心しておかげを受けると言う事は、もう当然の事だと当然のこと言っておられます。もう実に教学的な表現だと思うですね。只ここんところを、いうなら鰯の頭も信心からと言った様な、只拝むと言う事によって、そこに不思議なおかげが現れる。それも事実です。
それはわが心に神がござるからおかげになるのだと仰る様に、一心を立てて、只一心不乱に拝むとか頼むとかと、言った様な事だけが信心だというておる人達の場合が、やはりそういう風にも頂ける。けども教祖の場合は何処までも、此方の道は祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かる道と仰るのですから。だから話を聞いて成程と合点がいく、分かる、云うならばおかげの受け物がそこに出来る。
話を聞いて成程だと合点がいく。そこで、そういう改まり、そういう在り方にならせて頂く時に、もうこれは当然の事としておかげは現れるのだというのですから、実に私は教学的だと思うね。只一生懸命お願いをする、一生懸命お参りをする。お取次を頂いてお願いをしておかげを頂いたというだけのおかげとは違うと思うのです。もう当然の事としてです、当り前の事として現れるおかげをこおこでは言っておられる。
だから当り前の事として現れて來るおかげというのは、話を聞いて助かる道と仰る、話を聞くと言う事。天地の道理天地の御恩徳、それお分からせて貰うから、天地の大恩に対するところの神恩報謝の心も湧いてくる。天地の道理を聞かせて貰うから、道理の合うた生き方、生活が変わってくる。だからこれは、もう当然の事としておかげが受けられるのだと教えておられるのです。
なんか霊験の現れるあるよと言う所なんか、奇跡の様な感じが致します。金光様の御信心は奇跡ではない。もう当然の事として現れるおかげでなからなければならんし、又そういうおかげを頂かなければ、金光様の信心が分かっていきよるとは言えない。たぁだ一生懸命拝んだら、一生懸命参ったら、親先生のお取次を頂いたらおかげを頂いたと云うおかげはです、それは鰯の頭も信心からだと、そんなら言われても仕方が無い訳です。だからそう言う様なおかげも有るのです。これはやはり奇跡です。
けれども金光教の信心は奇跡ではなくてね、もう当然の事として現れてくるおかげ、当然の事として頂けるおかげ、それを神信心して霊験のある不思議とはいうまじきものぞと教えておられる。不思議じゃないのだと言う訳です。そこで私共はおかげを受けるなら、一つ大きなおかげを頂きたいと思う訳です。だからおおきなおかげを頂きたいと思うなら、だからどうしても、大きなおかげの受け物を作らなければならんと言う事も、これはもう道理であります。
一合瓶を持って行って、一升のお酒を下さいといいうても、無理な様に、一升のお酒が欲しいなら、やはり一升瓶を持って行かなければ、ならない道理なのです。そこで私共はより豊かな大きな、清らかなおかげを頂きたい。為にはより大きくより豊かに、より清らかに私共の心自体が、それを目指して行かなければならない事が分かるのです。私は今朝御心眼に、心という字をね、ながぁくながいと言うよりも、高ぁいたかぁくと、言う様な感じで頂いた。
こんな風に心、それを下からこう眺めているという感じでね、心という字を。いわゆる心が高度なね信心とでも申しましょうか。私は合楽で皆さんに日々聞いて頂いておる信心は、もう最高だと思います。これは、もっともっと高くなるに違いありません。この頃、学院長である出川先生が青年教師の講師として見えられました。翌日の朝の御祈念を頂かれて、御理解を頂いておられました。
私はあながち、お世辞ではなかったと思うのですけれども、朝のお食事の時に「大坪先生、ここでは大変高度なお話を分かり易う分かり易うお話しておられますけれども、大変な高度な信心ですね。」と言われました。それはもう、教学のいわゆる第一人者を任じておられる先生がね、もう大変な高度な大変な難しいお話を、それを分かり易く分かり易く説いておられるとこう。
私もそう思います。それを最近の御理解の表現を借りますとです、必ず教祖金光大神が世界の金光大神としておかげ頂かれる。世界中の金光大神と言われる事にならなければならない。まあお芝居でいうなら、主役を教祖金光大神がお勉めになるならば、お釈迦様でも、キリスト様でもその脇役であり、その脇を行かれる様な時代が必ず來るんだ。そう来なければ世界真の平和は望めないなと言った様な事を申しますね。
仏教といいキリスト教といい、それこそ何千年という伝統を持ってしかもその時代その時代の偉い高僧または名僧知識といわれる様な方達がです、その教えをいよいよ深め高めさせて頂いておられるのが、仏教の教典であったり、キリスト教のバイブルなんです。とてもとても、金光教等はかなわんと皆んなが言うたり思うたりしておる訳です。けれども合楽で御理解頂きよるとです、とてもとてもお釈迦様でもキリスト様でも説き得ておられなかった大変なことを教祖金光大神は説いておられると言う事なんです。
例えば今日頂きます、この御神訓でもそうです。これはただ霊験が現れるというて、奇跡が現れると、言った様に聞こえますけれども、今日頂きますとそうじゃないでしょう。当然の事として現れるのが、金光教のおかげだというのです。それはです、いわゆる高度なお話を頂く、御理解を承る広い深い何処まで、深いか分からん程しの御教えを頂く。その御教えを頂くのですから、そういう御教えを話を聞くのですから、話を聞いて助かると言う事もです、
もう当然の事として、大きな偉大なおかげも頂けれる、と言う事にもなるけれども、どういう偉大な大きな話を頂いておっても、自分自身が消し粒の様な信心であるとするなら、やはり消し粒の様なおかげしか、現れないと言う事なんです。私は今朝からその御心眼に頂いた心という字を、まぁ高く見ると言うのでしょうかね。肉眼で見ると、高ぁくこう書いた心と言う字、これは高度心、高度の信心。だからこれにいよいよ広く深く、広うならにゃいけん。
大きなおかげとは高くて私しは広い事だと思います、大きなおかげでも、ただ高いだけでは高いおかげというだけ。ですからまあ私はそれから感じたんですけれども、教学的に分かって行くと言う事は高度な事が分かって行くね高い。だから高いだけではおかげにならん。ただならこれは教学者の方のところで、そんなら教会があんまり繁盛しないというのはそう言う事。大変高度な事ではあるけれども、広さがない。
素晴らしい論理の元に教えが説かれましてもです、詳しくはなるけれども信心の血に肉になって行かない、そういうきらいが有るように思います。けれどもそんなら合楽の場合はです、分かり易う分かり易う説いてはおられますけれども、大変な難しい事を話しておられると出川先生が仰る様に、これは私自身も思います。いわゆる合楽哲学だと私は思うです。そういうなら哲学的な高度なお話を分かり易くお互い頂いておるのでございますから、これにいよいよ広さを増してこなければならないと言う事が分かります。
それが私は大きな信心と言う事になると思います。大きなおかげを頂いたなら合楽でしっかり御理解を頂いて、もうそれこそお釈迦様でもキリスト様でも説き得てない程しの素晴らしい高度な、いうなら天地の御恩徳であり、天地の道理を勉強させて貰い、その御教えに依っていよいよ心は何処まで深いか広いか分からないと言う様な広い広い心にならせて頂くおかげを受けなければならないと思うのです。
昨日聞かせてさせて頂いたこれの中に、熱心に信心が出来ます。そこの嫁さんも熱心とはいかんけれども、中々出来た嫁さんです。ところが何というでしょうかねえ、あんまりお話をしない、まあ利口気もない。そこで昨日そのお母さんがお参りして見えてお届をされるんです。先日からその嫁さんの為に何かを買ってやられたそうです。反物かなんかをけれども、その嫁さんが嬉しい様な顔をしないわけです。その後に今度は嫁さんがあのう嫁さんじゃない主人の方が、何か昔のおすすめ願いにやって来た訳です。
だからそのお母さんが言うた。「してやるたよかばってん、あんたげの誰々さん(嫁さんのこと)はね、有難いという道も知らんけんでしてやろうごとない」と申しましたと、こう言うのです。それに引き替えて弟嫁の方は非常に利口、私も知っている。信心はない、そりゃぁもう私どんが合うても、それはもう本当に信心のある者でん勝たんごとむごう言うです。口だけは、だからその弟嫁ごのごとあるならです、してやったっちゃしてやりがいが有ると言う訳です。
もうそれこそ、口だけはむごう言いよるばってん、全然心に真も何もない人が有りましょうが。人間はその言葉の所で騙される。そしていま今度は、片一方はものを言わんけれども、心の中にゃそれこそ綿の様な心を持っておっても、もの言わんから利口氣がないからというて、もうそれにはしてやろうごともない。もう本当に信心が浅いなと思います。信心がしっかりしござるばってん、信心が出来とんなさらんなあと思うです。
話は頂いて、いわゆる高度な事は分かっておっても、自分が広くなろう、大きくなろうとは一つも努めておられないと言う事です。もう永年いうならば嫁と姑との、いわばかかわり合いというものは、何年にもなるのですから、もう大抵うちの嫁は腹はよかばってん、利口氣はなか位は分かりそうなもの。それを口で言わなければ合点がいかない、承知しないと言った様な考え方、そう言う事では、そのいうならそのお母さん自身がおかげを受けません。大きゅうなかもん、心が。
口で言われようが、言われまいが、例えばよしそれがなら、お母さんの心の上にピタッとこないに致しましてもです、そういう時に私は自分の心というものは、大きくしていくチャンスだと思うです。自分の心には、はばからない様な事があってもです、そこんところをはばかる様な、その事が自分の心の中に泳がせると迄はいかんでもです、自分の心の中に、それを頂いて行こうとする精進が、ひとっつもなされていない。只形に見えるところだけで左右しようとしておる。
そういう心ではね、何時まで経っても心は、いうならば広い心にはなれません。うちのお母さんはちった馬鹿じゃなかろうかという位にです、まあ知らん振りするという訳じゃないですけれども、自分の心の中に泳がせておけれる程しの心の状態を願い、それを求めていく信心。それをなら教えを頂いておるのですから、その教えを本気で、ははぁこういう時に守らんならんのだと、気が付いたらいい訳ですけれども、そこには気が付かない。そして、まちっと位利口氣がありそうなもん。
あげんも言うてくれりゃえい、こげんもしてくれりゃと、言った様な事から、心が大きくならんですひとっつも、そりゃ本当に筈い思いをする事があるかも知れん。もう本当に臭い思いをする事があるかも知れん。けれどもそういう時にこそいよいよ心が大きゅうなっておる今こそ、なら心の胃腸が健全になっていきよる時だという風に、注文でも頂けるような思いで、お礼のいう心と言うものがいよいよ力がついていきょる。
ま臭いけれどもニンニクを食べとると言う様な、頂き方をしながら、信心を進めて参りますと、いよいよ心の胃腸が健全になる。いわゆる心が大きゅうなる。この心が豊かに広く大きゅうなっていくという、信心をさせて貰わなければ、只心が高いだけではいかん。高度な思いが頭の中で分かっとるだけじゃいかん。というてなら今度は、只心が広いというだけでもいかん。
折角御教えを頂いておるのですから、やはり道理に基づいた、いうならば思い方と言う様なものも、分からせて貰い、同時にそれに伴う所の、心の広さも段々大きくなっていく。誰か今度御本部参拝から帰ってからの話なんですが、「もういっちょ御本部参拝せん。」と誰々さんが言いよんなさったという訳です。なしやと思うたら、御本部へ行ってあの人からあげなこつ言われたけんでと。
もう本当に御本部参拝させて頂いて、あげな事ならば、あげなこと言われたら腹が立ちよったけれども、御本部参拝の有難いおかげで、それを自分の心の中に、平気で頂かれる様になったと、頂かなきゃならんのに、もういっちょ御本部参拝せんと、あげなこつば言われたけんでと。こんな小さい心で、大きなおかげを願っても、これは願っただけでおかげにはならん。それでどうして、おかげが受けられんじゃろうかと、いうのはちょっとおかしいでしょう。
おかげというのはもう奇跡じゃない。当然金光教でいうおかげというのは、霊験というのは。それは話を聞いて心が助かる。心が高くもあれば広くもなっておる。それこそ高い山の様に、広い海の様に自分の心が広う、高うなっていくから大きなおかげが約束される。しかもそれは当然の事として頂けるのです。信心して霊験のない時は、これぞ不思議なる事ぞと言う所に、当然の事として頂けるおかげが頂けんのはどうしてじゃろうじゃなくて、自分自身の心がおかげを頂ける心の状態ではないからだと、悟らせて貰う。
いよいよ高度な話を聞かせて貰うて、高度ないうなら心の状態を頂くと共に、いよいよ日々の信心生活の中に於てです、自分の心の中に、どう言う様な事柄であってもそれを有難くというか、又は元気な心というかイライラとか、腹立ちではなうい心で、有難い心で受けさせて貰えれる稽古を日々励まなければならない。それでいて初めて大きなおかげが約束される、大きなおかげが受けられる事になるのです。
そして自分がたったこの位の事で、腹の立っておる自分を発見した時です、成程これでは、私が願うておる様なおかげは成就しない筈だと、そこにひとつそういう筈だというものを、自分の心の中に頂いて、おかげの頂けんと言う事に、不思議を感ずると言う事はそう言う事だと思うです。当然頂けれるおかげを、頂けないで済ましては勿体ない。合楽でそんなら高度なお話を頂いても、只心が高くなるだけ、頭の中で分かるだけの信心ではなくて、心が実際にいよいよ広く深くなっていくと言う事をです。
願いとする信心に、ならせて貰うと言う事から、当然の事としておかげが現れてくる様になる。金光様の信心の有難いのは、その辺だと思うですね。只一心に拝んだから、一生懸命参ったから、お取次を頂いてお願いをしたら、こんなおかげ頂いたというおかげの域からです、当然頂けれるおかげの状態を、日々身につけていく信心修行が、大事だと言う事が分かります。
どうぞ。